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温 故 知 新

Episode-09 リストラの中での戦い~飛躍の時代へ

バブル崩壊の影響

 

バブル崩壊
1998年~2001年は、バブル崩壊による日本経済の低迷により「失われた10年」と呼ばれていた時代です。世間では、企業業績の悪化による固定費削減が広がり、「リストラ」という名のもとで人件費の削減、つまり首切りが横行していました。京都製作所の売上も、設備需要の冷え込みから低迷をし、「前例にとらわれない抜本的改革」が必要な時期でした。

しかし京都製作所では、安易な人員削減は行わず「真のリストラ」である「新規事業を立ち上げる」方針をとりました。もとより「人材が資産の全て」である方針のもと、不景気により人材の余力が生まれた、その「人材」に京都製作所の未来を託し、新規開発に果敢にチャレンジさせたのです。しかし、そもそも開発とは利益がすぐに出せるものではなく、従業員からは、利益を圧迫する「開発主体の経営方針は無謀ではないか」という声も聞かれました。
 

新分野へのあくなきチャレンジ

 

HDD組立機
新たな分野に進出するために、社員を組立機械メーカーに出向させて、技術を習得させる他、液晶ベンチャー企業からも技術指導を受けながら、自動機分野の開発を進めました。
この時期に開発された新分野機械の具体例としては、CDプレイヤー「フォトピックアップ組立機」「HDD(ハードディスク)組立機」等が挙げられます。特に「HDD組立機」は、ディスク面に微小な傷も許されないため、クリーンルーム内で使う機械であることから、包装機開発の常識は全く通用せず、設計、調達、製造の社員は一から勉強をしなおしました。
 
その他にも、電子部品を組み立てる装置「電解コンデンサけん回機D190」が開発されました。この機械は、アルミ泊と絶縁体を毎分4000回転もの高速で円筒状に巻きあげ、アルミ箔に電極をかしめるというもので、技術者達は、指先でつまむことさえ困難な小さなパーツを相手に、毎日深夜まで奮闘しました。
 

人事制度改革

 
抜本的改革は人事制度にも及びます。日本企業で常識とされていた「職能要件型」制度を見直したのです。従来の「仕事に必要な能力」を身につければ評価されるという制度から、「仕事の成果」で評価を行う成果主義型に改めました。成果が出せた者は翌年から直ちに高い処遇となりますが、成果が出せない者はその逆となり、とりわけ「2年連続成績が低ければ降格」するという今までにないドラスティックな制度でした。
 

旧・本社工場
このような厳しい経営政策がとられる中、未来を見据えた経営方針に労働組合も理解を示しはじめました。あらゆる面からのコスト削減が求められる中、労働組合自らが5%の賃金カットを申し出たのです。そして、協力企業もまた生き残りをかけて、京都製作所の方針に自らを託し、全面的なコスト協力を惜しみませんでした。

 

液晶組立装置・電子部品組立機の開花

 

液晶・電子機器分野
2003年~2010年頃、世間の景気はなお低迷していましたが、IT技術の進歩によりパソコン、携帯電話の需要が順調に伸び、液晶テレビも全盛期を迎えていました。苦労を重ね開発してきた液晶組立装置や電子部品組立機が、ここにきて大きく開花することになりました。液晶分野では、当初はギャップ成形機を主に扱っていましたが、精密機械を扱う技術や自動機の開発技術が評価され、液晶ガラスをカットするスクライバーブレーカーなど、より高度な液晶製造装置を扱うようになっていました。

 

医薬業界への挑戦

 

VARIO
一方、日本社会は高齢化により、医療費が増大しており、厚生労働省は医療費抑制政策の一環として「ジェネリック医薬品」の促進政策をかかげ、医薬メーカーの設備投資が活性化しました。かねてから京都製作所は医薬業界への進出を狙っており、ユーザーからヒアリングした様々な課題を満たす、新世代カートナー「VARIO(バリオ)」の完成に至ります。

VARIOはメンテナンス性向上のため、機械前面の足元に大きな空間をとり、その形状からバルコニー型と呼ばれました。まず、ワークをバケットに移裁し、カートンを箱立てして、プッシャーで能書と共に充填、最後にフラップを折り、糊付けする。こうした一連の動きにより毎分最高80箱の包装をします。後に開発される連続モーションタイプでは、最高で毎分300箱の包装を可能としました。顧客のニーズを的確に掴んだVARIOは、業界標準機と評価され、医薬業界に広く受け入れられました。
 

200憶円企業達成

 
橋本進が社長に就任した平成4年に、「5年後に200億円企業」を目指すと宣言したのですが、「20年目にしてようやく200億円を実現」することができたのです。
 

京製メックの貢献

 

京製メック
この時代は、90年代に将来を見据えて開発してきた技術が一気に開花し、急激に売上が伸びました。まだ先が見えていない、どん底と思われた2001年に、京製メックを立ち上げていなかったら、ここまで売上を伸ばすことができなかったことは間違いありません。振り返れば、極めて先見性の高い経営判断をしたと言えるでしょう。