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温 故 知 新

Episode-04 出会いが人を強くする

 

「ヤクルト」との出会い

 
民間市場という荒波にもまれ、徹底した体質改善に難航する京都製作所。過去の財産を侵蝕しながら、まさに手探り状態で新たな道を模索し続けるスタッフ達。そんな京都製作所に大きな転機が訪れます。
 

ヤクルトの商品
乳酸菌飲料の草分「ヤクルト」。まず口にしたことのない方はおられないでしょう。昭和40年代には、日本で最もメジャーな飲み物の1つとして、あの小さなボトルが、多くの家庭で愛飲されるようになります。この爆発的な普及の要因は、同社が商品開発、流通等において斬新かつ画期的な手法を、大胆に取り入れたことにあります。女性スタッフを主体とした宅配システムの構築などもその好例でしょう。特に、その中でも革新的だったのが、独特の形状をしたプラスチックボトルの採用です。
発売当初、瓶詰めだった「ヤクルト」が、プラスチックボトルに変わる大転換に、実は、京都製作所が深く関わっていくことになるのです。


原点回帰

 

ヤクルト
「ヤクルト」の容器を従来のガラス瓶からプラスチック容器に変える。当時としては前例のない画期的な技術革新を成熟させるために、商品開発、流通形態、販売手法など、クリアしなければならない課題が山積していたことは想像に難くありません。実は、その大きな課題の1つに「ボトルケーサー」の開発が含まれていたのです。
このボトルケーサーには、1分間900本という高速処理能力と、容器の材質や形状の特性に合わせた高度なハンドリング技術が求められ、当時の水準では、まず不可能であるといわれていました。この難題に対し、内外を問わず多数の包装機械メーカーが名乗りをあげていた頃、京都製作所は、技術と営業の確執を発端に混乱状態にありました。しかし、経営陣は、この案件こそが京都製作所を飛躍させる起爆剤になると判断、この開発に技術・営業スタッフとも総力を結集するよう命じます。
 
競合は大手や海外メーカーを含め多数、かたや取引実績がない後発の中小企業。社員達は経営陣を交え、この難題解決のために何度も話し合いを持ちます。自分達が置かれている立場、一般市場の実態を無視した甘え、お互いの立場を主張し合うだけの頑固な姿勢、京都製作所の使命とは何か…先陣が培ってきた京都製作所の「働き方」の原点に戻るために。
 
プレゼンテーションの機会が公平にセッティングされ、競合がひしめく中、京都製作所は綿密に策定されたプランをもって、「営業」と「技術」が揃って上京。そこには、お客様が求める自動化・省力化設備を提供する生産設備メーカーとして、お客様の課題解決のために、他にまねのできない技術を提供するという、京都製作所の原点に戻った、使命感あふれる社員達の姿がありました。当時の営業課長は「この時、勝利を確信した」と述懐しています。 この確信どおり、京都製作所はボトルケーサーの開発パートナーに指名されました。
 

京都の名もない中小企業が、大手乳酸菌飲料メーカーの開発パートナーに指名される!

 
内外の注目を集める中、昭和43年、試作機が完成、常陽ヤクルト工場で本格的な稼動テストが実施されます。その結果、性能の優秀さが認められ、ボトルケーサーの全面採用に至ったのです。全スタッフが念願した初の大型民間受注。これが、沈滞した京都製作所に新たな息吹を与えたことは、言うまでもありませんでした。小さな乳酸菌飲料「ヤクルト」との出会いは、業績、包装機械メーカーとしてその知名度、そして何より、京都製作所に集うものたちのわだかまりを解き放ち、新たな飛躍のきっかけをつくりだしたのです。


新たなる課題、終わりなき挑戦

 

シュリンク包装機
ボトルケーサーの開発以降、開発プロジェクトは最終目標である「流通の完全なワンウェイ化」のために、さらなる企画・開発を推し進めます。その中でも特に大きな案件であったのが、輸送手段の改革でした。何故なら従来の輸送形態は、プラスティック・コンテナ(ヤクルトの容器を壊さないように間仕切りをいれ、1本1本挿入できるように加工した箱)を利用していたため、ケースの回収業務を必要とし、時間、コスト面で大きなネックとなっていたからです。この課題解決のために当時の開発プロジェクトは、欧米で注目を集めていた、ある包装形態に着目します。
 
それは「シュリンク包装」と呼ばれ、フィルムで完全密封するという画期的なもの。ただし、その包装システムは、世界的にもほとんど前例のないものだったのです。当然、国内に導入事例はなく、しかも求められた仕様が、65ccの小さな容器を50本単位で、トレー(段ボール紙による底板)等を一切使用せず、わずか40ミクロンのポリエチレンフィルムだけで包装し、輸送中の荷崩れを防ぐ、というものでした。また、生産時の処理能力は1分間あたり1200本という超高速処理で、当時としてはとてつもなく困難なものでした。 開発プロジェクトは、当初から苦戦を強いられます。何故ならシュリンク包装は、熱管理を制御する機械のノウハウが最も重要な行程であり、この重要なノウハウが京都製作所にはまったくなかったからです。しかも開発期間はわずか4ヶ月しかありませんでした。
 
技術者達は、再び原点に戻り(タバコ・マッチの時がそうであったように)過去の経験で得た、徹底的な分析ノウハウ、机上プランと実験を、寝食を忘れ繰り返します。そして昭和46年9月、東京工場に第一号機を納入することに成功します。この二度にわたる開発以後、同社と京都製作所は何度かの世代交代を重ねつつ、ビジネスパートナーとしてより固い絆で結ばれ、現在も新たな包装システムの開発に取り組み続けています。


もう一つの大きな出会い「花王」

 

花王の製品
皆さんよくご存知の「花王」。
歴史ある石鹸洗剤メーカーであると共に、最も優れた生産技術力を有する企業のひとつです。 しかも、包装技術に関しては、国内に(京都製作所のような)専業包装機械メーカーが誕生する以前から、様々な包装機械や流通システムを独自に開発してきたといいますから、いわば京都製作所の大先輩といえるかもしれません。それだけに求める性能・レベルは非常に高く、京都製作所の技術者達は、当初から困難に直面することになります。  


前代未聞の巨大構想

 
昭和48年に花王が打ち出した、全国工場の包装工程合理化プラン。その方針は、これまでに例を見ない大規模なもので、搬入→包装→梱包→流通まで、全てを統合する壮大なプロジェクトであり、まさに現代流通の原点ともいうべき先進的システムでした。その中でも重要視されていた具体的な案件は、以下のようなものでした。
 
●包装工程の徹底的した無人化
段ボールケースをはじめとした包装材料を供給するメーカーの工場から、自社工場内の包装材料倉庫を含めた全生産工程、さらには全国販売会社の倉庫までを、一連の大きな機構に組み込み、その間一切人手をかけないシステムを開発する
 
当然、当時の技術ではこれに該当する機械設備はまったく見あたらず、一からの開発を必要とします。ただ基本構想は同社で既に策定されており、これを具体化するためのパートナーを必要としていました。京都製作所は、この開発プロジェクトに参加できるよう働き掛けます。競合激しい同社の開発プロジェクト参入に頭を痛めた経営陣は、競合との徹底的な差別化を図るため、大胆な施策を決断します。それは「花王石鹸・包装合理化プロジェクトチーム」と命名され、社内の開発プロジェクトとしてではなく、事実上、完全な別組織として、優秀な人材が召集されました。その内容は、プロジェクトチーム自体が、単独の企業として業務遂行できるほどのもので、当時の経営陣が力の入れ様をうかがい知ることができます。その結果、京都製作所は新技術開発のパートナーとして指名を受けることとなったのです。


人を育てる

 

無人包装システム
まず最初に手がけたのは、粉末洗剤の無人包装システム。世界的にも例がないといわれたこのシステムの開発は、最初から暗礁に乗り上げてしまいます。それは、当時の技術レベルが、求められたものにほど遠く、設計段階から試行錯誤の繰り返しであり、初期に納品した機械はトラブルの連続で、とても生産工場の使用に耐え得るものではなかったからです。この間の開発スタッフの苦労は想像を絶するもので、連日連夜の徹夜作業による改修が続けられました。それでもなんとか完成までたどりつくことができたのは、捨て身の覚悟で取り組んだ若いスタッフ達のあくなき情熱、そして、なによりも顧客である花王側のスタッフが、彼らの熱意を理解し、辛抱強く成長を見守ってくれたからに他ありません。

 
●当時の花王・包装技術部長の言葉
確かに今のレベルは低い。しかし育てなくてはいけない。若いスタッフを育てることが京都製作所を育てることになり、それがやがて大きなかけがえのない戦力となってかえってくる。
 
この意識は、以降の京都製作所の人材に対する大きな指針へ伝承されていきます。


出会いが「人」を「会社」を強くする

 

当時の新聞記事
その後、花王が石鹸洗剤メーカーに止まらず、トイレタリー、サニタリー、ハウスホールド、パーソナルケアー、食品、さらには情報メディアなど広範囲に多角化を図り、世界有数の総合家庭品・化学品メーカーヘと発展を遂げたのは、皆さんご承知の通り。この間、京都製作所は、その裏方として、あらゆる方面で心血を注ぎます。新しい分野へ進出は、同時に新しい包装技術の開発を必要とし、その都度、技術者達は強い使命感を持って、その一翼を担っていきました。
この結果、より帽広い技術を習得、質的な向上を果たし今日に至るのです。あの捨て身の「包装合理化プロジェクトチーム」発足以来、今なお技術スタッフは、初心を忘れることなく、現場で戦い続けています。
 
「お客様との出会いが、会社を、技術を、そして人を育ててくれる」 2つの大きな出会いが、京都製作所に大きな変化をもたらしました。
 
そして、いよいよ市場を席捲するきっかけとなる、もう一つの出会いが訪れます。 しかし、オイルショックという未曾有の不景気が、日本、そして京都製作所に暗い影を落とすことになるのです。