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Episode-07 メディアの多様化~円高との闘い

磁気メディア業界における技術革新と設備需要

 
京都製作所が磁気メディア業界と初めて出会ったのは、前章でも取り上げたように、ソニーコンパクトカセットケーサーを開発した昭和47年までさかのぼります。カセットテープが一般市場に広まって以降、磁気メディア業界は次々と新製品が生み出される、技術革新の激しい成長産業となっていったのは、皆さんご存知の通り。京都製作所は、今後もより一層成長が期待される分野の一つとして、この磁気メディア業界を最重要市場をと捉え、営業展開を図っていきました。オイルショックという危機に対し、何とか乗り越えていこうという全社員の強い意志がもたらした、最良の結果といえるかもしれません。


FD(フロッピーディスク)の台頭

 

FD製造機
昭和40~50年代にかけて、オーディオテープとビデオテープが急速に広まり、昭和60年代には、おりからのパソコンブームに乗ってフロッピーディスク(FD)がより市場を活性化させて行きます。FDは、もともとアメリカで開発されたコンピューター用の記憶メディアで、日本で本格的に生産され始めたのは昭和50年代中盤頃から。以降、手軽な記憶メディアとして市場に受け入れられ、やがてソニーによって開発された「3.5インチFD」が爆発的なヒットを飛ばします。当然、有望商品をめがけて素材メーカー等の新規参入が相次ぎ、当時の設備需要は活況を呈します。この時期、京都都製作所は大手企業から提示された難題を解決し、蓄積していった様々な技術をベースに、同業他社には真似のできない圧倒的な強みを発揮することになります。

 
また、胸ポケットに収まり、扱いやすくするために磁気素子を保護するハードシェルに収められた3.5インチタイプは、これまでの8インチや5インチタイプに比べ、遥かに高度な生産技術と品質管理能力が要求されました。この分野は日本メーカーが最も得意とするところであり、FDそのものの生産はもとより、その生産設備においても日本が常に世界市場をリードしていきました。


CD包装機の開発と世界市場進出

 

CD
昭和61年、日本ビクターからある案件が持ち込まれます。それはコンパクトディスク(CD)のプラスティックケース詰機の開発。CDは、デジタル記録であるため音声が高品質であること、レコード針のような接触部なしに再生できるため、劣化や振動に強いこと、小型軽量であること等、従来のレコードより優れた特性を持っています。CDは発売当初から巨大市場を創造する大型商品として大きな期待を寄せられていました。京都製作所でも、以前からこの新しいメディアに注目し、事前に研究を重ねていたこともあって、他社に先駆け、一早く開発に対応していきます。
ところが 同年5月に完成した第1号機は、トラブル続出で、技術部は瞬く間にクレームの嵐となります。特に問題になったのは、ブックレット(歌詞カードのこと)を挿入する部分。その厚みが変わるたびに高度な微調整が必要で、タイトルによってその都度ブックレットの厚みが変わるCDのケース詰機としては致命的な欠陥といえました。
 
そこで当時の技術陣は、全ての機器、部品について見直しを図りますが、なかなか思うように進展せず、時間だけが空しく過ぎていきました。そんな中、地道に機械をチェックしている技術者が手作業でブックレット詰めている女子社員の姿を見て、画期的なアイデアを思いつきます。それは、女子従業員の手作業を機械で再現するというものでした。具体的には、ブックレットを吸引機などを使って少し弓なりにそらせ、ケースに「挿入する」のではなく「はめ込む」ことを思いついたのです。 当時、技術スタッフはブックレットを「挿入する」という事にとらわれすぎていたのかもしれません。まさに発想の転換、柔軟な思考が、新たな技術開発のきっかけを創り出した瞬間でした。
 
昭和61年8月、ついに改良機が完成。その斬新なアイデアは各方面から高い評価を受け、CBSソニー(現・ソニーミュージックエンターティメント)をはじめ、主要各社から大量の受注を獲得するに至ります。そして、この成功を機に、経営陣は新たな市場展開を画策します。


アメリカへの進出と信じがたいクレーム

 
翌 昭和62年、京都製作所はついにアメリカへの輸出を開始します。CDは世界統一規格であるため、当然のことながらその市場性は海外にまでおよぶものであり、特にアメリカでの需要が非常に大きいものだったからです。ところが、市場調査の結果、アメリカ本土は既にドイツの競合メーカーが市場に入り込んでおり、出遅れた感は否めませんでした。しかし、営業陣の努力の結果、徐々にシェアを奪取していきます。また、それに伴って(受注先からの要請もあり)アメリカにアフターサービス網を整備。技術指導も兼ねて、日本からも技術スタッフが派遣され、海外進出に際し、まさに万全の体制を整えつつありました。
 
ところが、最初に納品された機械にことごとくクレームが発生。その状況は惨澹たるもので、連続して1分間も稼動しない状況であったといいます。当時、アメリカ側はこれを「最悪の機械」と酷評しました。連日、日本側スタッフは本社に向ってその惨状を訴えますが、誰も取り上げない…何故なら、国内での評判は良好で、各社から追加注文も来ており、アメリカでの不評はにわかに信じがたいものであったからです。再三にわたる報告の結果、経営陣は状況を把握するために、社長を筆頭に精鋭の技術陣をアメリカ本土に送り込みます。
 
のり込んだ彼等を待ち受けていた光景、それはにわかに信じ難い程ひどい状況で、技術陣は愕然とします。とるものもとりあえず原因究明がおこなわれ、次第に問題点が明確になっていきました。それは、アメリカの品質基準が日本とは異なり、使用する包装資材寸法のバラツキが大きいこと、つまり、日本では問題なく動いている機械が、アメリカでは正常に動作しない(できない)ということだったのです。しかも、現地の機械オペレーターの勉強不足といった要因も重なってしまった末の、最悪の結果でした。
 
帰国後、技術者達は猛然と改善に取り組みます。その結果、短期間で見違えるような改良機械を市場に送り出し、この事が逆にアメリカ市場で絶大な信用を得るきっかけとなったのです。以来今日までアメリカ市場は、京都製作所の重要市場として、様々な機械を送り出しています。


円高との戦い

 

円高イメージ
その後、京都製作所は苦い技術的教訓をバネとして、より一層積極的な営業を展開。海外法人との合弁会社を設立するなど、販売組織の充実を図っていきました。ところが、またもや「見えざる手」が世界市場を動かします。突如起こった猛烈な円高…京都製作所の機械は、たちまち競争力を失い、海外の競合に市場を席巻されることとなってしまうのです。当時の機械の為替レート採算分岐点は1ドル=120円程度を想定されていましたが、現実の市場は一気に80円台まで高騰、完全に採算割れの状態に陥いったのです。経営陣は苦渋の選択を迫られます。

 
ようやく日本で安定した利益を確保できるようになったさなか、その利益が食いつぶされてしまう。それも為替で。「全面撤退」…当然の選択肢でした。しかし、経営陣はもう一度技術者達の才能に賭けてみることにしたのです。


モデルチェンジ指令

 

CDプラスチックケーサー
技術スタッフに課せられた課題、それは、旧モデルの性能を維持し、為替レートの採算分岐点を80円まで引き下げる=約35%のコストダウンを目的としたモデルチェンジという極めて厳しいものでした。これだけ大幅なコストダウンをするためには、全てのアーキテクチャを見直すことはもとより、大きな発想の転換を必要としました。まず機械のフレーム構造をすべて変更、個々の工程も徹底的に見直し、無駄な機構を一切省いたのです。その結果、すべての面において目標をクリアーし、為替レートが80円になっても競争力のある機械を誕生させ、再びアメリカ市場に受け入れられる事となったのです。

 
このような様々な試行錯誤を経て完成された「CDプラスティックケース話機」は、京都製作所の増益に大きく貢献し、その後も、CDシングル、CD-ROM、PSを代表としたTVゲームソフト、DVD、Blu-ray Discメディアなど新市場が誕生する毎に、新たな改良が加えられ、現在に至っています。机上から離れて原点を見直し、異国の市場での苦渋に耐えながら取り組んできた技術陣の確かなノウハウは、今も脈々と息づいています。